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イースター島のモアイ

担当:長官
イースター島の謎と悲劇
序章

太平洋の孤島、イースター島。 現在、この島にはそのミステリーに惹かれ、 世界中から観光客が訪れている。 この島には有名なモアイ像があり、小さなものから、20メートルに 及ぶ巨大なものまであり、建造途中だったと思われる途中の段階の像も 残されている。 これらのモアイ像が作られ始めたのは12世紀で、 14世紀頃に盛んに作られたと考えられている。 これらの神秘的な島に外部の人々が訪れたのは1722年のことであり、 現在、この島の歴史を記憶する直接の島民や、記録などは残っていない。 それは、これらの島人、記録などが後に島に訪れた人々によって 連れて行かれ、記録も破壊されてしまったからである。 現在残っている貴重な記録はほんの一部残った「コハウロンゴロンゴ」だけである。

島に残された伝説

先ほど紹介したようにイースターの島民のほとんどは奴隷として 連れて行かれ、島に帰ることが出来た人々も外部の天然痘によって ほとんどが死亡してしまった。そのため、現在残っている歴史は モアイが作られた12世紀の伝説を反映している話だけではなく 、後からの創作による部分も多くなってしまっている。 イースター島のモアイをめぐる伝説として有名なのは 「モアイは魔力によって動かされ、ひとりでに歩いた」というものであろう。

モアイ像の目的と建造方法

人々を惹きつけるモアイ像の建造の目的であるが、 海神、信仰、墓地…など様々な仮説が立てられているものの、 未だに完全な決着はみていない。 モアイ像は海神である仮説は容易に想像 出来るが、モアイ像のほとんどは島の外側の海ではなく、 内陸を向いているので、島の神だった可能性も考えられている。 また、モアイ像の製造方法、運搬方法もミステリーとして扱われてきた。 当時、イースター島には2000人近くの島民がいたと考えられており、 モアイ像の石は凝灰岩であることが分かっているが、 この石は海岸には無く、ラノ・ララクという島内の山から 切り出され、そこから丸太などを用いて 運ばれた可能性が指摘されている。 しかし、注目すべき点は現在のイースター島には木が無いことである…

島に森はあったのか!?新たなミステリー

モアイ像の建造・運搬にあたって、木材は必要であったと 考えられている。現在のイースター島には森などは見られない。 当時は、どのような様子だったのだろうか。 植物・地質学などの研究者は当時の土壌からサンプルをとり、 以下のような結果を発表している。

「モアイ像が作られ始めた時代には、椰子(ヤシ)が大量に生い茂っていたが、 徐々に減少し、モアイ像が作られなくなったころにはごく少なくなっていた」

このような地質学的な調査結果を受け、 「森が減少し、土地がやせ、島民は食糧を作ることが出来なくなり、 同時にモアイも作られなくなった」という仮説が有力視されている。 また、森の減少と共に様々な 武器が増加していったということもこの説を支持するものとして受け入れられている。 島民たちは残った資源をめぐって争いを始めたのだろうか…

イースター島の謎と悲劇

イースター島。太平上の孤島で起きた真実。 それを求め世界中の人々がその謎を追い求めてきた。 現在では森の伐採によって資源が減少し、その結果として争いが起きたと いう仮説が有力視されているが、争いをせずに残った資源を利用してカヌーなどを 製造して脱出出来たのではないかと考える研究者達もいる。 イースター島が発見されると島民は奴隷として連れて行かれ、 開放後、島に戻る途中で天然痘が蔓延し、島民のほとんどが死亡した。 また、布教の際に、イースターの文字板「コハウロンゴロンゴ」が 多数焼かれてしまい、現在はこれらのごく一部しか残っていない。 こう考えると、イースター島はまさに"悲しみの島"ともいえるかもしれない。 倒れたモアイもこの悲しみを見つめているのだろうか…
モアイは歩いて移動した・・・?

イースター島に伝わる伝説としてモアイが歩いて移動したというものがあります。 ただの伝説としか思われていなかったことのことが、近年、科学の 発展で、ロープを使って移動させることによってモアイが歩くようにして 移動できるという実験が行われ、成功しました。 実際、モアイの完成途中の形状と、完成したモアイの形状は異なっており、 完成途中のモアイの形状で、ロープを使うことによってモアイを"歩かせる"ことが出来るのです。
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